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上橋菜穂子「隣のアボリジニ 小さな町に暮らす先住民」(ちくま文庫)
『獣の奏者』『鹿の王』などで知られるファンタジー作家の上橋菜穂子氏は、文化人類学者でもある。
本書は、上橋氏が文化人類学者として、オーストラリアの先住民、アボリジニを研究した結果をまとめた作品である。



日本人が抱くアボリジニのイメージといえば、都会からかけ離れた大自然の中で原始的な暮らしをする人々、といったところだろうか。
本書を読めば、そのステレオタイプがいかに古く、誤ったものであるのかがわかる。
彼らは今や、白人と一緒に町の中で暮らしている。多くのアボリジニが伝統文化を失い、独自の言語を失い、白人との混血が進む中でも、やはり白人とはどこか異なる価値観を抱いて生きている。誰がアボリジニで誰が白人なのか、次第に曖昧になっていく中で、アボリジニは決して遠い存在ではない、「隣人」となっているのだ。

アボリジニが歩んできた歴史はとて悲惨なものである。
かつていくつものも言語と文化を抱えた伝統集団であったアボリジニは白人に武力によって制圧され、劣悪な労働環境のもと、牧童とされた。その後、アボリジニの虐殺、虐待の歴史を経て、政府はアボリジニの保護政策に乗り出す。しかし、それはアボリジニを隔離し、親から子どもを取り上げて公共施設へ収容するというあまりにむごい政策であり、ここで彼らの文化は継承されずに滅んでいくこととなる。差別をなくすべく60年代に導入された白人とアボリジニの平等賃金制度は、大量のアボリジニを失業させ、アル中や犯罪者にしてしまうという結果を招き、現在に至っている。

それでもアボリジニの文化は完全に失われたのではない。親族を大切にする文化、アボリジニ独自の儀礼や「法」は現在も生き続けている。傍観者としては、アボリジニにはその現存する貴重な文化を失わずに生きていてほしいと身勝手なことを思ってしまうが、彼らの文化は決して良いものばかりではない。「法」を犯したアボリジニを殺す恐ろしい呪術師「ジナガビ」、女性蔑視の結婚制度など、そこには負の部分もあり、また白人中心の社会では生きづらさを生んでしまう要素となってしまう点も多いのだ。

人種隔離政策のような明らかな差別がなくなった一方で、これまでの社会的背景により、失業者やアル中のアボリジニが大量に発生している現状はベストだとはとてもいえない。しかし、白人とアボリジニが共存している以上、その衝突を避けることもとても難しい。両者がよりよく生きるためにはどうしたらよいのか。それは非常に複雑で難しい問題である。

本書全体から、アボリジニと真摯に向き合う上橋氏の姿が感じられ、その誠実なお人柄に好印象を受けた。
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山本敏晴「世界で一番いのちの短い国 シエラレオネの国境なき医師団」(小学館文庫)
「世界一の短命国ってどんな国だろう?」そんな軽い好奇心から手に取った本だが、想像をはるかに超える実態に衝撃を受けた。



ここに書かれているシエラレオネの実態は、日本では考えられないことばかりだ。
不衛生で、杜撰で、健康についての知識や常識が通用せず、むごくて悲惨な歴史を持った国。
読んだだけで病気になりそうな気がして、読み進めるのがしんどい部分もしばしばあった。少なくともカフェでゆったりお茶をしながら楽しめるタイプの本ではない。
しかし、本書は私のような国際協力に無知な人間に考えるきっかけを与える、非常に大きな意味のある本だと思う。はじめは不謹慎にも思えた明るく軽妙な筆者の語り口に励まされ、結局短期間で読み切った。

ここに書かれているシエラレオネの実態例をかいつまんでご紹介したい。(本書が描かれた2002年当時。現在は改善されていることを期待したい)

★不衛生
トイレに行ったら無数の虫。そしてその虫は様々な病原菌を媒介する。おしりは手でふき、水がないときはそのまま。日本の5倍ほどのサイズのゴキブリがうようよいる。川や土の中には日本には存在しない、人を死に至らしめる恐ろしい寄生虫が多数いる。国民の1/3はHIVに感染しているといわれているが、採血の針は使い回し。お店で売られている食品は腐っている。

★医療体制の崩壊
内戦でインフラとともに病院は破壊され、医療関係者の多くは国外に逃亡し、国内にいるごく一部の医者は超特権階級としてふんぞり返っており、医者の仕事をほとんどしない。薬は不法に転売され、不適切に使用されているので病原体は耐性化し、薬も効かなくなっている。

★今も色濃く残る、むごく暗い歴史
長く戦争が続いたこの国では、国力を疲弊させることを目的とした一般市民の四肢切断や、子どもを麻薬漬けにして子ども兵とするなど、想像を絶するむごいことが行われていた。更に歴史を紐解けば、植民地時代、奴隷の歴史にさかのぼり、あまりに読むのがしんどく、人間としての尊厳とはなんだろう、と思ってしまう。

★常に危険と隣り合わせの国際協力
強盗、強姦、殺人が多発するこの国では、医師団の人たちは常に危険と隣り合わせ。身を守るために24時間通信用ラジオを持ち、車で行動する。郵便物は100%盗まれ、何も届かない。

さて、私にとってあまりに強烈だったので、シエラレオネの実態ばかり書いてしまったが、この本の重要な部分は「あるべき国際協力の姿とは何か?」を問いかけている点だろう。
「正しい医療を伝えるんだ」と固執すれば、ただの西洋文化の押し付けになり、一時的に物資や金銭を「支援して」も根本的な解決にはならない。なによりも難しいのが彼らの伝統文化と西洋医療との関係性であると感じた。たとえば、シエラレオネの通過儀礼として定着している割礼。先進国の医療関係者からすれば自ら病気にかかろうとしているようなとんでもない慣習だが、「医学的に危険だからやめろ」と強制するのは文化の破壊、価値観の押し付けになってしまう。
国際協力をする人たちの中にも考え方の差があるだろうが、「選択肢を示し、判断は現地の人に任せる」という筆者の考え方には非常に好感が持てた。

また、大切なのはこの悲惨な状況の背景を考えること。何がこの国をこういう事態にしてしまったのか、その点をもっと学びたいと思った。

国際協力に参加する人は強い意志と行動力をもった人ばかりだと思っていたら、意外にも軽い気持ちで参加し、途中でトラブルを起こして帰国してしまう人も多いようだ。それもどうかとも思うが、何もしない私よりは行動に起こした者の方が意味がある様な気もする。
そしてそんな行動力も勇気もない人間に遠いアフリカの一国の実態を伝える、貴重な本を読めてよかったと思う。途中しんどかったけれども。
ヤスミンコ・ハリロビッチ・編著、角田光代・訳、千田善・監修「ぼくたちは戦場で育った」(集英社インターナショナル)


「子どものあなたにとって戦争とはなんでしたか」
自身も幼少期に戦争を体験したヤスミンコ氏が、子ども時代にサラエボ包囲戦を経験した1974年~1992年生まれの人に対し、SNSを通じてそう問いかけた。
そこで集まった人々の声によって本書は構成されている。

本の概要やサラエボ包囲戦についてはこちらのイベントレポートにまとめたので、ここではSNSを通じて寄せられた、当時子どもだった人たちの声について書いていきたい。
SNSには1500以上のメッセージが寄せられたそうだが、本書に掲載されているのはそのうちの1000あまりの短いメッセージである。

まず目をひくのが、食べ物に関する記述が非常に多いこと。戦争時の空腹の中、チョコレートなど憧れのお菓子を切望する気持ち、UNHCRによって支給されていたランチパックの思い出、そして絶望的にまずいというイカール缶詰について。
極限状態の中におかれたとき、食べることは生きることだという事実に気づかされるのだと感じる。
(ちなみにイカール缶詰のまずさは現地の人たちの中に強烈な記憶として残っており、記念碑まで立っているらしい。このあたりがサラエボの人のユーモアセンスである)

そして、子どもならではの「遊び」の思い出。その中に戦争が入り込んでいる点が印象的である。戦争ごっこ、砲撃の音をまねて大人たちをからかういたずら。戦争が子どもたちの遊びをむしばんでいるともいえるが、戦争さえも遊びに変えてしまう子どものたくましさと不謹慎さ、そして異常さを覚えた。
また、一方で戦争によって子ども時代を奪われ、「大人にならざるをえなかった」「一瞬で大人になった」という回答も目立つ。突然親を失ったり、水を運ぶなどの労働に携わらなけらばならなかった、本来遊び盛りだったはずの子どもたちを思うと胸が痛い。

困難な中だったからこそ、固い絆や友情が生まれたという声、また戦争の中でも、恋をした、という声も目立つ。
その一つを紹介しよう。
「かなしみとしあわせ。
かなしみ-世界でもっとも醜いものを見聞きさせられ、感じさせられた。
しあわせ-そういうのをぜんぶ、友だちと共有したこと
ダニエラ 1983年生まれ」
戦争だからといって子どもたちはすべてをあきらめた、というわけではない。そこには人間としての成長があり、仲間がいて、愛情が生まれる。人々はどんな状況でも「心」を失わずに生きている。

子ども時代というのは人生の中のほんのひとときで、一度通り過ぎてしまったら、もう二度と戻ってはこない。
戦争で奪われた彼らの子ども時代は二度と帰ってこないのだ。
その重みを強く感じ、何の罪のない彼らをそんな状況に追いやってしまった原因はなんだったのか、と思いを巡らせた。

最後にとても印象的だったメッセージを紹介したい。
「なんでもないときはいろんなものがほしいけど、戦争のとき、ほしいのはたったひとつ、そのなんでもないとき。 
アルディヤナ 1984年生まれ」
先日、パリでテロが起こった。シリアでは戦争が続いている。これらは遠い過去のことではなく、現在起きていることであり、日本にとっても他人事ではない。
平和ボケした日本人の目を開かせるようなメッセージが、この本にはつまっている。



平野昭「ベートーヴェン」(新潮文庫)
趣味でクラシック音楽の演奏をしている私。
文学でもそうだが、単純にその作品を聴いたり演奏したりするだけでなく、その音楽ができた時代背景や作曲家の人となりがわかると、より深く作品を楽しめるように感じる。
というわけで、こちらの本を。



ベートーヴェンというと、不屈の精神によって難聴という音楽家最大の困難に打ち勝ち、数々の名曲を残した天才、とドラマティックに語られがちだが、実はその生涯を細かくは知らなかった。
本書を読んで面白かったベートーヴェンのエピソードは下記のとおり。

●幼少から「天才」だったベートーヴェンと父のエゴ
祖父、父と代々音楽家の一族に生まれたベートーヴェン。幼少期から父に音楽を教え込まれ、7歳で演奏会デビューを果たし、ピアノ、チェンバロと才能を発揮し、音楽界に名を馳せていく。音楽家としての華々しいスタートの一方で、自分の息子を少しでも神童と見せるため、わざとベートーヴェンの年齢を少なく言いふらしていた父のエゴも感じる。

●いろんな人ともめごとを起こしすぎでは?
ベートーヴェンは生涯にわたってさまざまな人と喧嘩をしていたようだ。作曲をしたものの、曲を献呈するはずだった相手ともめごとを起こし、他の人に献呈した、というエピソードは何度も出てくるし、弟との確執もあった。義妹とは、甥のカールの後見問題をめぐって裁判沙汰になっている。人間関係ではトラブルメーカーであったのかもしれない。

●失敗に終わった「運命」と「田園」の初演
同年に完成した、交響曲の5番と6番。この2曲の初演に加え、協奏曲、合唱幻想曲までを演奏したという当時のコンサートはどんなに豪華ですばらしいものだったろう!…と思いきや、実は散々な結果だったらしい。練習不足で演奏の失敗だらけ、ベートーヴェン自らが指揮を振ったものの、楽団員と喧嘩、おまけに演奏会は真冬の極寒の中行われたというのだから、現代の我々から見たら、笑い話のようである。

●実らなかった恋
何度か恋愛をしたものの、すべてうまくいかなかったと思われるベートーヴェン。お相手は未亡人、ニ十歳以上年下の女性、既婚者などとこれまたドラマティック。そしてベートーヴェンが残したラブレターの受取人は誰だったのかが論点となっていると聞くと、著名人にはプライベートもないのか…過去の傷をえぐらないであげて、とちょっと同情したくなる。

本書には、あえてなのか、耳の病気に関する記述は少ない。その分、新しいベートーヴェン像を自分の中で構築することができた。
ベートーヴェンにまつわる写真や音楽家によるエッセイも豊富に収録され、文庫ながら豪華な1冊だ。
最相葉月「絶対音感」(新潮文庫)
「絶対音感」について、執拗に執拗に、これでもかと調べつくした本。
その入念な取材に感服するとともに、「絶対音感」に加えて子育てや早期教育のあり方について考えさせられる本だった。




まず、「絶対音感」について興味深く感じた事柄を挙げてみたい。

●これまで「絶対音感=音すべてがドレミに聞こえること」だと思っていたが、そう単純なものではないらしい。人によって絶対音感のあり方は異なっており、音に色彩イメージが湧く(ドは赤、など)人もいれば、照明が音ととして聞こえてしまうような人もいる。

●日本での絶対音感教育の生みの父は、園田清秀というピアニストで、耳の良い西洋の音楽家達に追いつくために、彼の息子を実験台にしてメソッドを確立していった。

●戦時中は軍隊に絶対音感教育が採用され、敵の飛行機や潜水艦の位置を聴き分けるために悪用された。

●絶対音感は幼児期に身につけられる記憶の一種。同じ周波数で一定の刺激を与え続けることで、その周波数に対する感受性が高まり、それが音の高さの記憶に結びつく。

●絶対音感を身につけると融通がきかなくなるなどの弊害もある。たとえば、440ヘルツのピアノで絶対音感をつけたために、442ヘルツでチューニングをしているオケに合わせられない、楽器が温まって音が高くなると受け付けられなくなる、などだ。絶対音感は音楽を支える絶対の音感ではない。


そして、早期教育について。

筆者は絶対音感を「物心がつく前に親や環境から与えられた、他者の意志の刻印」だと述べ、幼児を音楽教室に通わせて絶対音感を身につけさせるために躍起になっているような親の姿を冷ややかな視点で分析しているように思われる。
そこには単純な音楽教育にとどまらない、親のエゴや親子の特別な関係性などが透けて見える。
特に第八章の、ヴァイオリニストの五嶋一家の話が印象強かった。

先述のとおり、絶対音感は幼いうちに学習させないと記憶として定着しない。子どもが自ら絶対音感を身につけたいと思えるような年齢になる前に、本人の意志とは関係なく、他人によって「勝手に身につけさせられる」ものなのである。
子どもが柔軟なうちに、少しでも将来の可能性を広げてあげたいという親心は分かる。
親のエゴで縛られた子育ての在り方はどうかと思う一方で、エゴのない子育てなど存在しないとも思う。
ただ、子どもが親の自己実現の代替品のようになってしまっているとしたら、子育てのあり方として歪んでいるのでは、などと考えこんでしまった。