妊婦と読書 ― ことばは、今も。
本好きOLが妊婦になりました。妊娠生活と、読書記録を綴ります。
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オルコット・著、麻生九美・訳「若草物語」(光文社古典新訳文庫)


あまりに有名なこの作品をきちんと読んだことがないと気づき、購入。
まず驚いたのはその長さである。全部で23章あり、ページ数は500ページを超える。しかも解説を読むとこれは第一部らしい。まだ先があるのだ。なかなかの長編である。
言わずと知れた本作は、150年前のアメリカのとある四姉妹の日常を描いた作品である。父親が南北戦争に従軍しているため、四人姉妹は1年間父親不在の生活を送ることになる。
本作は、女性の自立を描いた作品だと捉えられることもあるそうだが、私にはそうは思えなかった。むしろ保守的で、そしてキリスト教的な教訓小説だという印象を受ける。四人姉妹それぞれが失敗をはじめとする様々な経験を通して自分の行いを改め、欠点を克服していくという展開(うわべにとらわれがちなメグはパーティーで嫌な思いをしたことを通じて、気の短いジョーはエイミーとのけんかを通じて、臆病なベスはローレンス氏の所有するピアノとの出会いを通じて、やや自意識過剰なエイミーは学校での失敗を通じて、それぞれ成長していく)は、いかにもお説教臭く感じた。

四人姉妹の中では、ジョーがいちばん生き生きと描かれていて魅力的だ。おっちょこちょいで言い間違いをしたり、服や姉の髪をダメにしてしまったりと珍事件を起こすうえ、金を工面するために自慢の髪を売ってしまうなど時に大胆な行動に出て、次は何をしでかすだろうとわくわくする。だから、そんなジョーに穏やかになるよう言い聞かせてしまうのはをもったいないなと思ってしまった。そして、「女の子だから家にいないといけない」と彼女に言わせてしまうことも。私が保守的、と感じたのは特にその点である。

現代の感覚で読むと、四姉妹はあまりに素直で幼い。特に長女のメグが16歳という設定なのには驚きである。一方でメグとジョーは学校には通っておらず、もう働いており、メグは結婚を考えている。 現代の日本の感覚からいくとちぐはぐで、なかなかイメージしづらいものがあるが、それでも子供の頃にこの作品をきちんと読んでいたら、夢中になったかもしれないなと思った。

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カズオ・イシグロ・著、小野寺健・訳「遠い山なみの光」(早川書房)


薄暗い小説である。
今は英国で暮らし、おそらく初老の婦人となっている悦子は、長崎に住み、若かりし妊婦だった頃のことを思い出す。悦子の現在と過去を行き来しながら物語は進んでいく。
長崎でのエピソードは、悦子の家の近所に住む何ともとっつきにくい印象の母子、佐知子と万里子とのやり取りを中心に展開されていく。戦争で夫を失った佐知子は「みじめな生活」からの脱却を図り、あえて親戚を頼らず、信用できないアメリカ人を頼りに渡米することを決意する。そんな佐知子に対し、はっきりと否定はしないものの、不安を抱く悦子。しかし、やがてそんな悦子も日本を去り(おそらく夫を捨て)、今は英国に住んでいる。かつてお腹の中にいた娘の景子は、その犠牲となったのか、自殺して既にこの世にいない。

物語の序盤ではことの経緯についてはっきり書かれておらず、読んでいくうちに登場人物の会話から少しずつあらすじが明らかになっていくので、続きが気になって一気に読んでしまった。しかし、後にも述べるが結局明らかにならないまま終わっていることも多く、消化不良のような何とも言えない後味が残る。

本書を読んでいて印象に残ったのは、世代間での考え方のすれ違いと女性の生き方についてである。
悦子の義父、緒方さんは戦時教育や古い価値観をひきずっており、かつての自分の教え子が当時の教育を批判することが理解できない。また、現在の悦子は、結婚し子どもを産むことがよいと思っており、結婚について否定的な娘のニキをイライラさせる。分かり合えない世代間のギャップが悲しい。
また、物語に出てくるさまざまな女性たちの姿から、女性としての生き方を考えさせられる。佐知子は「母親は子どもの幸せを一番に考えるのが当然」と言いながら、しばしば娘の万里子を放置し、万里子の意思を尊重しているようにも思えず、言葉と行動にギャップがある。アメリカに行っても万里子が幸せにならないであろうことはほぼ明確だ。結局彼女が大切にしているのは「ただ座りこんで年をとっていくだけの自分」からの脱却なのではないかと思う。
また、そんな佐知子に対し、悦子は誰に対しててもやわらかい態度をとり、一見従順で素直な女に見えるが、本心はどうなのだろう。保守的と思われた悦子が日本を後にして英国へ旅立った経緯がわからず仕舞いなので、彼女の本心は闇の中である。ただ、母親に連れられて渡米したであろう万里子は自殺した悦子の娘、景子と重なる。景子が悲惨な最期を迎えるように、万里子もまた幸せになれないことを暗示しているようでもある。
さらに、脇役ではあるものの、夫を亡くした後、うどん屋さんを経営し力強く生きている「藤原さん」や、 子どもを自分の思う通りに育てようとする、絵にかいたような高慢ちきな教育ママである社長夫人など、女性たちのさまざまな生きざまが垣間見えて面白い。 

物語の舞台の大部分は日本だが、会話の中に実際の日本人はあまり言わないような発言があり、本書が日本の小説ではなく、あくまで翻訳された海外の小説であることを感じさせられる点も、興味深い。

原千代海・訳「イプセン ヘッダ・ガーブレル」(岩波文庫)
一読した印象は、性格の悪い新妻ヘッダの不可解な物語、といった感じだが、フェミニズム的な視点で見直すと、少し違ったヘッダ像が浮かび上がってきた。



話はヘッダと夫テスマンが新婚旅行を終え、新居に帰ってきたばかりのところから始まる。そこへヘッダの学生時代の後輩、エルヴステード夫人が夫のもとを飛び出して駆け込んでくる。彼女は愛するレェ―ヴボルクを追ってやってきたのだが、放蕩者のレェ―ヴボルクはヘッダの元恋人なのである―。

ヘッダはとにかく性格の悪い女である。夫テスマンへの愛も、テスマンの家族への思いやりもなく、人の好意をあだで返し、些細なことでいらいらし、他人の不幸を喜び、嫉妬深く、でも自分から何かをしようとはせず、不満を漏らし、退屈している。
はじめは読んでいてくすっと笑ってしまう程度の性格の悪さだったが、第2幕、3幕と進んでいくうちに読んでいて気分が悪くなるほどだ。
ヘッダは何がしたかったのか、と突っ込みたくなるが、彼女が望んでいたのは、自分の手を汚さずに、他人を駒のように動かし、悲劇的なストーリーが展開されていくのを傍観することではないか、と思う。しかし事態は彼女にとって最も望ましくない展開になってしまう。自殺させようとしたレェ―ヴボルクは、ヘッダが憎んでいる女の手によって殺されたようだし、その一件がもとで、ヘッダはブラック判事に弱みを握られてしまう。エルヴステード夫人とテスマンは原稿を通じて親しくなり、自分をのけ者にしだす。
ヘッダはやけっぱちのようにとんでもない行動に出る―。なんとも不幸な女だ。

なかなか理解しがたいヘッダのキャラクターだが、フェミニズム的な視点から見ると、ある種の主張めいたものが感じられる。
まず、タイトル。ヘッダは新妻であるにも関わらず、この劇のタイトルは結婚前の「ヘッダ・ガーブレル」である。結婚に対する反発のようなものがとれなくもない。
そして、レェ―ヴボルクとエルヴステード夫人の二人の力によって完成した、いわば二人の愛の結晶ともいえる原稿を「赤ちゃん」と呼び、それをヘッダが焼くシーン。これはそういったものを男性と築けない女性ならではの激しい嫉妬であるとともに、母性への憎悪、否定にも感じられる。(他のシーンでもヘッダが母になることを拒んでいるかのようなやりとりがある)
そしてラストシーンは男性から支配されることへの精一杯の抵抗のようにもとれる。
そうやって考えてみると、エルヴステード夫人も、一見献身的で保守的な女性のようで、家を飛び出してレェ―ヴボルク(愛人?)を追ってきた、意志の強い進歩的な女性のようにも取れる。
イプセンはこの作品を通じて、新しい女性のあり方を示したかったのだ―と考えるのは深読みだろうか。
パウロ・コエーリョ・著、山川紘矢・山川亜希子・訳「ピエドラ川のほとりで私は泣いた」(角川文庫)


 小さな町で生まれ育ち、手堅い職を得、そろそろ結婚を...と平凡な人生を送っていた現実主義者の29歳のピラールのもとに、ある日、幼馴染の男性から「自分の講演を聴きにきてほしい」という手紙が届く。
12年ぶりに再会した彼は宗教家になっており、人々を癒し、教え導く奇跡の力を持っていた。
彼はピラールに12年来の愛を告白し、そして言う。自分と一緒に来てほしい、と。

ピラールは戸惑いながらも彼についていく中で、これまで失っていた本当の愛と信仰心を取り戻し、自分が本当にやりたいと思っていることに気づいていく。
一方で彼はピラールへの愛を断ち切り、このまま修道士として生きるか、彼女と結婚し、一般の人間として生きながら神に仕えるか,という究極の選択に迫られていた――。

信仰心のない私にとっては、聖母マリアをはじめとする神の女性性や、修道士の彼の説く奇跡の話は、 正直あまりよく分からない部分もあった。
しかし、一方で「人は失敗をおそれるあまり、“他者”に支配されるようになり、自分の本当にやりたいことを見失っていく」という話や、奇跡は毎日の生活の中にある、と説いている部分は以前読んだ「アルケミスト」と共通して筆者が主張しているテーマであり、無宗教の日本人でも分かりやすい。

3分の2くらい読んだところで、だいたい先が読めてしまったが、ラスト20ページで裏切られ、「えっ、こんな悲しい終わり方をするの?」と思ったら、エピローグで、いい意味で小さく裏切られた。
彼の奇跡の力は戻るだろう。そこには 苦しみもあるだろう。 でも自分の生きる道を見つけたピラールはきっと幸せなのだ。


サン=テグジュペリ・著、二木麻里・訳「夜間飛行」(光文社古典新訳文庫)
何のために飛ぶのか。



薄暗く、重い印象を持たせる小説である。
命を懸けて夜間郵便飛行を行う男たち。一機の飛行機の墜落事故を通じて、その人間模様を描く。

新婚でありながら地上の幸せに別れを告げ、死への飛行を続ける悲劇のヒーロー、パイロットのファビアン。
自分の命の行方をパイロットのファビアンにゆだねるしかない、同乗者の通信士。
ひたすらパイロットの無事を祈って待つ、哀れな若き妻。
たった一度の小さなミスで解雇されそうになるベテラン工員のロブレ。
冷徹に人々を罰することで何とか自分の威厳を保とうとするものの、自らの無力さを知っている監督官ロビノー。

しかし、この小説の中でひときわ存在感を放つのはパイロットではなく、地上で全線路に責任を負う、社長のリヴィエールである。彼はひたすらパイロットたちの運命を抱えて生きるという宿命に苦悩しながらも、事故を最小限に抑え、事業を成功させるために、非人間的な指示をも出し続ける。夜間飛行では少しの気のゆるみが命取りになる。小さな恐怖心がパイロットをだめにする。そこで彼が出す指示は機械的で冷たいものになるのだ。
最後のシーンで彼は墜落事故があったのちも後発の便の出発を見送らず、事故死したパイロットがいる空に再びパイロット達を送り出す。自分の意志を貫くために。彼は自分の心の弱さに勝利したのだ、それが正しい判断なのかはわからないけれども。

今を生きる人間を犠牲にしてまでやり遂げなければならない事業とは何なのか。
彼らが飛び続けることの尊さはどこにあるのか。
本書は読者に深い問題を投げかける。

最も美しいのは、ファビアン達が死にゆくシーン。
彼は暴風雨の中で嵐の裂け目を見つけ、上空を目指す。そこにあるのは、満天の星、そして満月。しかし、ファビアン達は二度と生きて下界に戻ることはできない。まるで天国へと昇華していくような、絶望的な悲しい美しさである。