妊婦と読書 ― ことばは、今も。
本好きOLが妊婦になりました。妊娠生活と、読書記録を綴ります。
プロフィール

ようこ

Author:ようこ
本が好き!雑誌が好き!なアラサーOLです。

これまでの訪問者数

最新記事

カテゴリ

最新トラックバック

月別アーカイブ

最新コメント

フリーエリア

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

角田光代「おまえじゃなきゃだめなんだ」(文春文庫)


恋愛や結婚を中心とした24編のショートショートを収めた短編集。
不規則な構成の章立てが独特で魅力を感じたので、章立てを中心とした感想を。

―ほんもの、が欲しい―
とあるジュエリー店(明らかにティファニー)を訪れる人々を描いた「約束のジュエリー」、かつて高校の修学旅行で同じグループだった40代女性のそれぞれの人生を描く「あの宿へ」、死期の迫った人の「花」が見えるという特殊な能力を持った女性を描く「さいごに咲く花」、結婚間近な女性の、最初と最後の彼氏とバーの思い出を描いた「最後のキス」「幼い恋」、そして表題にもなっている「おまえじゃなきゃだめなんだ」の冒頭につけられたタイトルが「ほんもの、が欲しい」。

「ほんもの」ってなんだろう。

「ほんものを作ろう」と決意するのは「あの宿へ」に登場する美南。彼女は映画監督として四苦八苦する中で、ほんものとは「色あせることなく、消えることなく、ずっと心にとどまるもの」だと気づく。それは、無理に背伸びして手に入れるものや、見せかけだけのきらびやかさではなく、もっと素朴で身近にある、人生に小さな喜びを与えてくれるものなのだ。

「ほんもの」は値段や物でははかれない、と教えてくれるのは、「約束のジュエリー」と「おまえじゃなきゃだめなんだ」。
後者の主人公、「わたし」は男性が連れて行ってくれるレストランの高級さやプレゼントの値段にしか価値を見いだせない女性。しかし、安っぽいチェーンのうどん屋に何よりも大切な家族の思い出を持っている男性と出会い、人にとって何にも代えがたい大切なものというのは金額や高級さとは無関係なんだと気づく。
それと相反するように、「約束のジュエリー」ではジュエリーを通じて、送り主の「ほんもの」の愛の強さや確かさを実感する人々が登場する。しかしそれもティファニーそのものに「ほんもの」があるのではなく、ジュエリーに込められ、可視化された愛があるからこそ、ティファニーはティファニー以上の価値を持つのである。

―好き、の先にあるもの―
旅行先で出会った人々との思い出が交錯する「ぞれぞれのウィーン」、大学時代のサークルの先輩と久しぶりに再会したものの、記憶の中の先輩の印象とのギャップに戸惑う「すれ違う人」、居住地を中心とした場所にまつわる人々の思い出を描いた「不完全なわたしたち」、そして今まさに結婚しようとしているカップルと離婚しようとしている夫婦を交互に描いた「消えない光」の冒頭につけられたタイトルが「好き、の先にあるもの」。

好き、という思いの先にあるのは、数々の思い出、結婚、そして離婚。
思い出は時に美化し、時に他の記憶と混合する曖昧なものである。「ぞれぞれのウィーン」、「すれ違う人」を通じて、人の記憶力の不確かさを感じ、ちょっぴり切なくなる。
そしてそれ以上に悲しいのが「消えない光」。厳しい両親に、フリーターの彼との結婚を認めてもらえない悔しさと悲しさを抱える凜子と、そんな凜子のためにアルバイトでためたなけなしの金をはたいて婚約指輪を買おうとする耕平。お互い思いやりがあり、好き合っているのに周囲に認められない二人の不器用さが悲しい。
一方、芳恵と武史はきちんとした生活を保ち、お互い心穏やかに接していられるのに、離婚を決意する。なぜこの二人は別れなければいけないのだろう。納得がいかないまま、切なさだけが読後に残る。
スポンサーサイト
最相葉月「絶対音感」(新潮文庫)
「絶対音感」について、執拗に執拗に、これでもかと調べつくした本。
その入念な取材に感服するとともに、「絶対音感」に加えて子育てや早期教育のあり方について考えさせられる本だった。




まず、「絶対音感」について興味深く感じた事柄を挙げてみたい。

●これまで「絶対音感=音すべてがドレミに聞こえること」だと思っていたが、そう単純なものではないらしい。人によって絶対音感のあり方は異なっており、音に色彩イメージが湧く(ドは赤、など)人もいれば、照明が音ととして聞こえてしまうような人もいる。

●日本での絶対音感教育の生みの父は、園田清秀というピアニストで、耳の良い西洋の音楽家達に追いつくために、彼の息子を実験台にしてメソッドを確立していった。

●戦時中は軍隊に絶対音感教育が採用され、敵の飛行機や潜水艦の位置を聴き分けるために悪用された。

●絶対音感は幼児期に身につけられる記憶の一種。同じ周波数で一定の刺激を与え続けることで、その周波数に対する感受性が高まり、それが音の高さの記憶に結びつく。

●絶対音感を身につけると融通がきかなくなるなどの弊害もある。たとえば、440ヘルツのピアノで絶対音感をつけたために、442ヘルツでチューニングをしているオケに合わせられない、楽器が温まって音が高くなると受け付けられなくなる、などだ。絶対音感は音楽を支える絶対の音感ではない。


そして、早期教育について。

筆者は絶対音感を「物心がつく前に親や環境から与えられた、他者の意志の刻印」だと述べ、幼児を音楽教室に通わせて絶対音感を身につけさせるために躍起になっているような親の姿を冷ややかな視点で分析しているように思われる。
そこには単純な音楽教育にとどまらない、親のエゴや親子の特別な関係性などが透けて見える。
特に第八章の、ヴァイオリニストの五嶋一家の話が印象強かった。

先述のとおり、絶対音感は幼いうちに学習させないと記憶として定着しない。子どもが自ら絶対音感を身につけたいと思えるような年齢になる前に、本人の意志とは関係なく、他人によって「勝手に身につけさせられる」ものなのである。
子どもが柔軟なうちに、少しでも将来の可能性を広げてあげたいという親心は分かる。
親のエゴで縛られた子育ての在り方はどうかと思う一方で、エゴのない子育てなど存在しないとも思う。
ただ、子どもが親の自己実現の代替品のようになってしまっているとしたら、子育てのあり方として歪んでいるのでは、などと考えこんでしまった。
ツルゲーネフ・著、神西清・訳「はつ恋」(新潮文庫)
その甘く美しいタイトルからは予想できない、おぞましさや何ともいえない嫌な感情を駆り立てる小説。



裕福な家庭に育った16歳のウラジミールは、別荘の隣近所に越してきた零落した公爵家の娘、ジナイーダに恋をし、以来、勉強も何もかも手につかないほど彼女に夢中になる。ところがある日、ジナイーダがウラジミールの父親と恋仲であることに気づいてしまう。
夫の不倫に気づいたウラジミールの母の計らいにより、一家は引っ越しをすることになるが、その先でもジナイーダとウラジミールの父が密会しているのを目撃し、ウラジミールは衝撃を受ける。しかし、その後父は病死、ジナイーダも出産の際に命を落とすことになる。

このジナイーダは、零落した家庭の娘でありながら、何人もの男性をかしずかせ、もてあそぶ高慢ちきな女で、男性を虜にするような魅力がどこにあるのか、少なくとも同性の私からは全く理解できない。彼女の母親もお金のことしか考えていないいやしい女で、小説内ではその醜さが浮き彫りになっており、ますますこの家庭の魅力は理解できないのだ。
そしてジナイーダを囲む、主人公を含む男達もなんとも情けない。今風にいうなら、「ビッチな女とそれに振り回されるアホな草食系男子」といったところか。ウラジミールの父も冷淡な女たらしだし、母は財力だけを鼻にかけた人間だし、ろくでもない登場人物ばかりでうんざりしてしまう。
うーん、ロシア文学は私には合わないのかもしれない。

語り手は寡黙であり、具体的な表現を避けたり、省いたりしている個所が多い。たとえば、ジナイーダをウラジミールの父が鞭で打つシーン。なぜ彼が鞭打つことになったのか、その理由は全く書かれていない。それから、ウラジミールの母が大金をモスクワに送ったというエピソードも、誰への、何のための送金なのか一切書かれていない。ジナイーダへの手切れ金だろうか。そして何より、ジナイーダが死ぬまでのその後の経緯も全く分からないのだ。
私はさらっと読んでしまったが、そういった部分に想像をめぐらせ、じっくりと「行間を読んで」みるのもいいかもしれない。