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角田光代「私のなかの彼女」(新潮文庫)
これぞ角田光代、といった印象の作品である。
女として生きること、母と娘、夫あるいは彼氏との関係、妊娠、仕事といった角田作品おなじみのテーマが多分に含まれ、亡き祖母の過去をたどっていくというストーリーには『ツリーハウス』にも通じる、ファミリーヒストリーの要素がある。そして決して楽しい話ではないのに先が気になって読み進めてしまう点も角田作品らしい。



本書のあらすじは次の通りである。
主人公の和歌はこれといった特徴のない普通の女の子だが、大学時代から交際している和歌の彼氏、仙太郎はセンスが良く才能もあり、学生時代から売れっ子アーティストとして活躍している。社会人として働き始めたある日、和歌は偶然、実家の蔵から亡き祖母の著書を見つけ、祖母が作家だったのではないかと思い始める。そして祖母の過去を探っていくうちにその存在に感化され、自身も物語を書き始め、作家への道を歩み出す。賞を受賞し、和歌は専業作家としての活動を始めるが、仕事をするにつれ、家事はおろそかになり生活は乱れ、仙太郎との関係も次第に崩れていくー。

ここでは和歌、和歌の母親、そして和歌の長年の彼氏である仙太郎の三人にしぼってその人物像と本の主題のようなものを考えてみたい。
まず、主人公の和歌だが、読んでいて悲しくなってくるくらい自信がない。学生時代から自分は頭が悪い、美人でもないと繰り返し、文学賞を受賞しても周囲の作家と比較して自信を持てずにいる。 それに輪をかけるように、特に後半から仙太郎の発言が和歌に釘を刺す。いい気になるな、作家としての下地を持っていない者は弱い、などという発言が和歌の自信のなさに追い打ちをかけ、さらにだらしない生活をしていることを批判され、和歌は常に仙太郎に見張られているように感じ、びくびくとして日々を過ごす。
この和歌の自信のなさはどこから来るのだろうと考えたとき根底には母の存在があると考える。和歌の心のよりどころになっているともいえる祖母の存在をひたすら否定し、結婚し子を産むことだけが女の理想の生き方だと信じ、そこから外れた生き方を一切認めない母。 親に自分の生き方を認めてもらえないというのはどんなに辛いことだろう。和歌の自己肯定感の低さは母の在り方に起因するものだと思う。
さて、最もよくわからないキャラクターなのが、仙太郎である。和歌の目を通じてしか描かれていないせいもあり、最後まで本心のわからない、不気味な存在だった。一つ、感じたのはプライドの高いタイプの男性なのかな、ということくらいである。プライドが高いから何のとりえもないような、自分の地位を脅かさない和歌と長年付き合い、和歌が成功し始めるとうまくいかなくなる。和歌の前では常に「仕事のできる仙太郎であり続けた」が、和歌の知り合いの編集者がみな仙太郎のことを知らなかった点、同棲を始めてからは家事に時間を費やしている点から、 途中から仕事も減っていたのではないかと思われる。仙太郎は果たして和歌が思っているほどの「売れっ子」だったのだろうか。 本当にすごい人だったのか。
仙太郎の発言には和歌を追いつめるようなものも目立つが、常に穏やかで、言っていることは一理ある(そして和歌にも非はある)ともいえるため、明らかなモアハラ男ともいえない。このあいまいさが怖い。仙太郎がよく見せる 笑顔が不気味で、和歌がその存在に怯えるのも無理はないと思う。そして、彼は本当に和歌が仙太郎や彼との生活より仕事を選んだから、和歌のことを捨てたのか、そうではなく、かつてのアーティストとしての自分としていられなくなったためにリセットが必要だったのではないかと勘ぐってしまう。

本書は仕事か家庭か、あるいは男と張り合うの張り合わないのという話ではなく、もっと個人の根底にある部分、つまり自己をどう評価し、自己肯定感をもって生きるかを描いた作品のように思えた。始終他者の評価に振り回されていた和歌が自分で自分のことをとらえられるように変化しているのは、ラストシーンで「祖母が筆をおいたのは周囲の圧力ではなく、自分の意志によるものだった」と考えるようになった点に現れている。
祖母の存在を心の中に抱きながら和歌は前に進んでいくのだろう。


金井壽宏「働くひとのためのキャリアデザイン」(PHP新書)
キャリアデザインなるものに興味を持って手にとってみた本がこちら。



書かれていることは至極ごもっともなのだが、当たり前のことばかりであまり新たな発見はなかった。
本書で繰り返し唱えているのが、「節目」のみキャリアをデザインし、あとはドリフトする(流れに身を任せる)のがよい、という考え方である。そして、その「節目」では他者とのつながりの中で、相互依存により、自分のキャリアが作られていくのだという。
さらに人生の「節目」を発達段階に応じて捉え、特に新入社員として入社するタイミングとミドルに差しかかったタイミングでのキャリアの考え方や課題について詳しく論じられている。

発達段階に応じたキャリアの捉え方を書いた後半部分が面白い。ミドル以降は、老いていくのみだとマイナスイメージを抱きがちだが、「いくつになっても一皮むけるキャリア」を考え、その年齢に応じた発達課題に取り組んでいく、という考え方は、人はいくつになってもその時々で求められているものがあるのだと前向きな気持ちにさせられる。

ただ、最も気になる“いつを「節目」と定めるか”についてや、その「節目」の際にどうキャリアをデザインするかという部分が不明瞭なので消化不良の感がある。本書はハウツー本ではなく、どちらかというと学術よりであり、理論的かつ理想的なことが書かれているので、実践的なアドバイスはあまりない。
そういったことを知りたい場合は、より実践的な本を探してみる必要がありそうだ。


読売新聞教育部「大学入試改革-海外と日本の現場から」(中央公論新社)
2020年から日本の大学入試が変わると話題になっているが、では海外の入試はどのように行われているのだろう?と思って手に取った本がこちら。



本書ではアメリカ、台湾、韓国を中心とした各国の入試状況と日本の入試改革に関する取材がまとめられている。その概要を下記にまとめる。

★アメリカの場合
複数回実施の共通テストSATに加え、高校時代の活動実績や小論文、面接などで総合的に合否が決まるアメリカの大学入試。SATは日本の大学入試改革の参考とされる存在ではないかと思うが、そのSATも近年は出題内容が高校での授業内容とかけ離れ、塾に通って対策をとれる子が有利になるという批判にさらされ、見直しが行われた。変更後は教科横断型の論述や統計データの読み取りなど、まさに日本の新試験でも話題にあがっていた問題形式となっている。
注目すべきは日本のように1点刻みで合否が決まるのではなく、ボランティア活動などの課外活動が重視され、大学によって差はあるものの、「いかに大学に貢献できる人物か」「大学の環境、校風にマッチしているか」を見ており、多様な人材を確保することに重点を置いているという点である。入試というよりは就職活動の採用面接のようで、特に“生徒が学校に貢献する”という意識は日本人にないため、その採点基準には違和感を覚える。テストが満点でも面接で落ちる可能性があり、評価基準もあいまいで、不公平感があり、日本では受け入れにくいだろうなと感じた。

★台湾の場合
台湾では共通テストを年2回行っている。1回目は三年生の中盤に行われる「学科能力測験」。2回目は卒業後に行われる「指定科目考試」。前者のほうが圧倒的に受験者が多く、後者は「敗者復活戦」として捉えられている。前者は学力試験に偏った評価にならないよう、面接や課外活動の実績と総合して判断するAO入試型。かつての受験戦争の激化への社会的批判により、推し進められた形だ。しかし、やはり評価基準の曖昧なAO入試は不公平だという不満や、「学科能力測験」の後は合格した生徒が遊んでしまい、授業が成立しなくなるという問題も生じている。特筆すべきは、台湾大などが地域格差を解消するため、各学校につき1~2人を推薦できるという繁星推薦を設け、地方の生徒を集めようとしている点だ。しかし、学校によってレベルがバラバラなので、都会の生徒に対する逆差別になりそうで、やはり不公平感があると感じた。

★韓国の場合
日本以上に学歴社会で知られる韓国。過度な受験競争を緩和しようとAO型の入試が広がっており、進学校では詰込み型の学習よりも発表などのアウトプットや面接対策に力を入れている。塾通いを減らし、受験競争を緩和させようというその取り組みは、大学の個別試験での教科の筆記試験を法律で禁止し、TOEICなどの外部試験の資格を調査書に記載することも禁じるなどの徹底ぶりだ。しかしどんな方式にしてもその対策をする塾ができ、いたちごっこの状態が続いている。大統領が変わるたびに入試制度が変わってしまうという状況もあり、模索状態が続いているといえるだろう。

どの国の入試制度にも一長一短あり、完璧な入試というのはそうそうないということを感じさせられた。
気になったのは、本書に載っているのがハーバード大をはじめとする超一流大学の事例のみで、一般的な大学の例ではないということだ。本書の最後の方で定員割れしている日本の大学の事例が紹介されていたが、他国の取材でもトップ校だけでなく大多数の大学の現状を知りたいところである。

飛鳥井千砂「砂に泳ぐ」(KADOKAWA)
アラサー女子をリアルに描く飛鳥井千砂さんの小説が好きで、『アシンメトリー』『学校のせんせい』『サムシングブルー』に続き、本書で4冊目の読了。



地方の携帯ショップ店員として働いていた紗耶加は、仕事のストレスやかみ合わない彼氏とのやりとり、そして自分の生きる狭い世界に息苦しさを覚え、上京する。
携帯会社のコールセンターで働き始めるものの、慣れない都会暮らしからストレスによる急性のめまいに襲われる。そんな紗耶加は自分を助けてくれた優しい男性、圭介と付き合い始めるが、彼の精神的不安定さや違和感を覚える言動に、次第に悩まされ、振り回されていく。圭介と別れ、もがきながらも、やがて紗耶加はフォトグラファーになるという自分の夢を切り開いていく。

本の帯を見ると、この小説は一人の女性が次第に強さを身につけていく成長物語であるかのように説明されているが、私の印象では、紗耶加は初めから芯の強い女性である。次々と店員が離職していく携帯ショップにおいて、同僚の嫌みやモンスター顧客にも屈せず働き続け、たった一人で身寄りのない東京へ向かい、ストレス性の病に襲われても決して故郷に泣きかえることなく、自分の居場所を見出していく。その姿はとてもたくましい。
一方で恋愛に対しては潔い反面、一種の冷たさのようなものを感じた。はじめの彼氏、智彦とは会話がかみ合わず、違和感を覚えるという理由で別れ、二人めの彼氏、圭介は精神的に弱く、紗耶加にすがりついてくるがそれも切り捨ててしまう。強いといえばそうなのかもしれないが、特に圭介の切り捨て方は、読んでいて彼がちょっとかわいそうな気もした。

さて、冒頭で書いたとおり、飛鳥井千砂さんの作品はリアリティがあって好きなのだが、飛鳥井さんは特に「人間関係が壊れていくさま」を描くのが上手だなあ、と思う。女の友情にひびが入るシーンや、今回の作品でいうと、彼氏とすれ違っていく会話などの描き方が卓越だと思うのだ。ただ、リアリティという部分から言うと、今回の作品は少し話がうまく運びすぎているかもしれない。後半の圭介と別れた後の紗耶加の葛藤などが描かれていると、より良かったと思う。

津村記久子「とにかくうちに帰ります」(新潮文庫)
心惹かれるタイトルだ。



ドラマティックな展開など一切ない、どこにでもある会社の取るに足らないような日々が淡々と描かれている小説。
起こる「事件」といえば、豪雨で交通手段が途絶え、帰宅難民になったり、インフルエンザで社員の多くが会社を休んだり、といったどこの会社でもありえるような出来事で、あとはマイナーなフィギュアスケートの選手の応援に興じたり、嫌なタイミングで仕事の依頼をしてくる後輩にいらっとしたり、職場の先輩にお気に入りの文房具を盗られたのではないかと疑ってみたり…と会社生活での小さな出来事が綴られているだけ。退屈で、そしてリアルな会社員の日々が丁寧に描かれている。

個人的に心惹かれたのは、「職場の作法」の「ブラックボックス」でスポットライトが当てられている、「田上さん」の仕事ぶりである。おそらく専門的な知識などは不要の一般事務的な仕事(資料作成?)の担当者である田上さんは、頼まれた仕事を即座にこなして自分の能力の高さを示すのではなく、時にわざと時間をかけたり、「それは難しいですねえ」とやんわりと断ったりすることで、「自分の仕事はそんなに簡単にはこなせない仕事だ」と示す「ブランディング」をしている、というのだ。そして「どんな扱いを受けても自尊心は失わないこと」「不誠実さには適度な不誠実さで応えてもいい」ということを心構えにしている。
できることをあえてやらないというのは、「能力のない人」とみなされそうで、私にはできそうにないが、面白い発想だなと思った。
この田上さんをはじめ、人が嫌がっている話題をそうとは気づかずに持ち出し続ける無神経な北脇部長や、体調が悪くても会社を休まず、できる社員オーラと病原菌を振りまいている山崎さんなど、「他人のふりみてわがふり直せ」ということわざを思い出させられるような人々がたくさん登場する。読む中で、「いるいる、こういう人!」と登場人物たちに共感したり、、「こんな仕事の依頼の仕方はダメだよなあ」と思わず我が身を振り返ったりしてしまった。